2025年04月01日
4/1は上陸記念ピクニック!
「まるでピクニックのよう」に米軍
上陸 80年前、沖縄本島では
4/1(火) 毎日新聞

米軍上陸直前、侵攻を遅らせる
ために日本軍が爆破した「栄橋」。
1931年に造られてサトウキビの
運搬などに利用され、住民生活
に欠かせなかったという=沖縄
県嘉手納町で2025年3月27日、
喜屋武真之介撮影
1945年4月1日、米軍は早朝から激
しい艦砲射撃を加えた後、沖縄本
島中部の西海岸へ上陸した。予想
に反して日本軍の反撃はほとんど
なく、米軍の従軍記者だったアー
ニー・パイルは上陸後の行動をこう
書き残す。「まるでピクニックのよ
うだった。皆で腰を下ろして七面鳥
とオレンジに舌鼓を打った」
読谷山(ゆんたんざ)村(現・読谷
(よみたん)村)の自然壕(ごう)、
シムクガマではこの日、避難してい
た住民約1000人が米軍に保護された。
ハワイ帰りの大人2人が米兵と交渉し、
投降するよう住民を説得した。
一方、近くのチビチリガマでは翌2日、
住民が集団自決し、83人が亡くなった。
半数以上が子どもだった。米軍は投降
を呼び掛けたが、多くの人が「残虐に
殺される」と恐れ、応じなかった。
本土決戦までの時間を稼ぐため、日本
軍はあえて地上戦に持ち込んだ。米軍
の侵攻を遅らせようと、各地の橋も事
前に破壊した。だが、その工作は功を
奏さず、むしろ住民の避難を妨げた。
米軍は沖縄本島を分断して南へ、北へ
と進んだ。嘉手納町に、爆破された
栄橋の橋脚の一部が残る。【喜屋武
真之介】
1945/0401は米軍上陸記念日
読谷海岸から大群で押し寄せた
軍兵たちは各豪をしらみつぶしに
おとずれかくれていた住民たちを
捕虜にしていった。ある豪は全員
助かり、ある豪は集団自決に追い
込んだ。
火炎放射器ですべての豪を
念のために焼き尽くした。
デニーパパも背中に火炎砲
を背負い残虐な仕事に従任
完遂した。17、8のアルメニア
からの移民には過酷なノルマが
負わされた。米国籍をとるため
仕事のない彼らに軍兵になるしか
道はなかった。その後も軍属となり
朝鮮戦争に従軍、沖縄の伊江島に
基地をつくる仕事にも加わった。
彼らにとって沖縄は戦闘のない
平和そのもので毎日が退屈の日々。
狼が赤ずきんちゃんを狙わないなんて
ありえない。当時、米兵犯罪は
すべて無罪泣き寝入り。村長はじめ
住民たちはあきらめるしかなかった。
洗えばなおる、命(ぬち)どぅ宝とか
言ってなぐさめることしかできな
かった。ソ連兵も同様で終戦まぎわ
に野獣のごとく相当ひどいことをした。
だから戦争は勝たねばならぬ!
「ピクニック」は結局、
戦闘期間3ヶ月に死者1万2000、
負傷者6万という、当時の米軍
からすれば驚天動地の大出血
に終わる。
アーニーパイルご自身は
伊江島の戦闘取材中に
敵弾にやられて落命、後に
那覇にできた劇場の命名権
をあたえられた。那覇と銀座に
はアーニーパイル劇場があった。
もとの東京帝国劇場が米軍に
摂取された
名前を変えたといわれている。
口は災いの元、ピクニック
なんていわなければよかった。
迎え撃つ9師団を
台湾防衛に引き抜かれて
迎え撃つ戦力が無くなり
内陸での防戦に
切り替えましたからね
作戦ミスで台湾に戦力を
奪ったのに大本営は
水際で無抵抗に文句をつけて
責任ある司令官が居るのに
作戦指導をしだすやら
逃げ出した泉知事の無策で
島民避難も出来てない
牛島司令官は
踏んだり蹴ったりで
相当、苦労したようです
参謀長が交戦派の長氏とか
沖縄県民斯く闘えり
米紙の沖縄取材で明らかに
「米軍に守ってほしい若者
と撤退を叫ぶ高齢者」
3/31(月) クーリエ・ジャポン

Photo: Chang W. Lee/The
New York Times
戦争の傷跡がいまなお残る
沖縄では、米軍基地の負担
軽減に向けて長年取り組み
続けている。戦争を経験し
た世代は断固として米軍の
撤退を求めているが、その
一方で若年層は中国に対する
脅威や経済的な事情から、米
軍を「守ってくれる存在」と
みなしているようだ。分断す
る沖縄の現状を米「ニューヨ
ーク・タイムズ」紙が報じた。
【画像】米軍に反対する
高齢者世代と「安全を与え
てくれる存在」だという
若者世代

糸数慶子(77)は1965年、
米軍のパラシュートが開か
なかったあの日のことをい
まも忘れない。パラシュー
トは、沖縄の糸数家の近く
で降下訓練中の落下傘部隊
とともに輸送機から落とさ
れた、ジープトレーラーに
取り付けられていた。糸数
本人は、落下するトレーラ
ーの直撃を免れたものの、
近所に住む当時小学5年の
女子児童が犠牲になった。
事故当時、高校生だった糸数
はこの事故が起きるまで、自
分の住む亜熱帯の島に駐留す
る米軍がいかに巨大な存在な
のかを意識していなかった。
米国が第二次世界大戦終結後
に日本から沖縄を奪取すると、
それ以降、米国の施政下に置
かれた。糸数はそれまでずっ
と、そうした米国人を見て過
ごしてきた。


だが糸数は、空から降ってき
たトレーラーの犠牲になった
少女を知っていた。それ以降、
沖縄の米軍基地反対を一貫し
て叫び続けてきた。米軍基地
は1972年、沖縄の日本復帰が
実現したあともなお残ってい
る。彼女はつい最近も、沖縄
本島北東岸に面した辺野古の
海兵隊基地ゲート前で、同基
地に隣接する海岸で建設が進
む新飛行場に抗議する活動に
加わった。
米軍は「安全を提供してくれ
る存在」
沖縄の人々は長年、米国と
日本のあいだに捕らわれてい
ると感じてきた。日本は1870
年代、軍隊を派遣して沖縄諸
島の領有権を主張した。それ
以前の沖縄は琉球王国として
知られ、清朝(現・中国)と、
中世日本の大名の支配機構の
ひとつ薩摩藩の双方に貢物
(こうもつ)を納める独立し
た国だった。
沖縄島民は、日本領となって
からずっと二級市民扱いだと
こぼす。先の大戦のときも、
日本は米軍の本土上陸を阻止
するため、沖縄を決戦場とし
て利用した。
だが近年、沖縄と日本本土と
の関係は変化しつつある。
一因として、沖縄の今後を左
右しかねない第三の勢力が再
び台頭してきたことが挙げら
れる。中国だ。沖縄の若い世
代も、本土側の若い世代と同
じSNSのニュースを見ている。
そこでは、ますます強硬な姿勢
を見せる中国政府を批判する見
方が広がっている。
『米国を受け入れるか、中国の
脅威に晒されるか「沖縄は戦後、
日本を守るための捨て石にされ
た」』へ続く。


真の平和と安定を築くためには、
日本の自衛隊が地域を守る
責任を果たし、住民の安全と
尊厳を守る体制を確立する
必要がある。
平和を維持ためには
抑止力となる兵力強化
はぜったいに必要である。
6月23日に組織的な沖縄戦
は終了し、その1ヶ月半後に
広島、更に長崎と原爆が
投下され、それが決定打と
なって降伏に至った。
もし原爆が開発されて
いなければ、沖縄に上陸した
連合軍は南西諸島を北上して
鹿児島に上陸し、そこが
次の戦場になった
可能性もある。
沖縄県民です。
年配の方々は、
米軍基地の負担と言うが
具体的になにを指すのか
若者に教えて欲しい。
生まれた時から、基地が
当たり前のようにあり、
基地で働く友達の親がいたり、
軍用地の収入で大学まで出た
仲間がいたり、今では軍関係
でビジネスして生計立てる
仲間もいる。
何が負担なのか?
教えて欲しい。
左翼がよく使う
すて石とは
あとからつけた
プロパガンダですよ
銃剣とブルドーザー
によって土地が接収された
とかどれも共産党
のあとだし強弁
基地や飛行場はもともと
あったし、そこを補修して
使っているだけ
その周辺に移住して
できたのが普天間だったり
嘉手納、読谷だったりする
地政学的に沖縄が重要
なのはわかりきっている。
周りに家が無い辺野古の
海上に移転すれば
リスクは減る訳で。
なんで反対するか
理解できません
しかしながら、好むと
好まざるとに関わらず、
地政学的に沖縄は
要石のポジションにあり、
これからも沖縄に
軍事基地は存在し
続けると思う
米軍兵士の犯罪等に
ついての地位協定は
改正するべきだとは思う。
沖縄を見て思うが、
最近は反基地派の候補が
軒並み負けたりしてるので、
若い世代じゃ無くても
反基地派の勢力には
うんざりしてる人が
多いと感じます。
平和を保持するにも
それなりの思想や根性と
金がかかる
内戦してる場合ではない


上陸 80年前、沖縄本島では
4/1(火) 毎日新聞

米軍上陸直前、侵攻を遅らせる
ために日本軍が爆破した「栄橋」。
1931年に造られてサトウキビの
運搬などに利用され、住民生活
に欠かせなかったという=沖縄
県嘉手納町で2025年3月27日、
喜屋武真之介撮影
1945年4月1日、米軍は早朝から激
しい艦砲射撃を加えた後、沖縄本
島中部の西海岸へ上陸した。予想
に反して日本軍の反撃はほとんど
なく、米軍の従軍記者だったアー
ニー・パイルは上陸後の行動をこう
書き残す。「まるでピクニックのよ
うだった。皆で腰を下ろして七面鳥
とオレンジに舌鼓を打った」
読谷山(ゆんたんざ)村(現・読谷
(よみたん)村)の自然壕(ごう)、
シムクガマではこの日、避難してい
た住民約1000人が米軍に保護された。
ハワイ帰りの大人2人が米兵と交渉し、
投降するよう住民を説得した。
一方、近くのチビチリガマでは翌2日、
住民が集団自決し、83人が亡くなった。
半数以上が子どもだった。米軍は投降
を呼び掛けたが、多くの人が「残虐に
殺される」と恐れ、応じなかった。
本土決戦までの時間を稼ぐため、日本
軍はあえて地上戦に持ち込んだ。米軍
の侵攻を遅らせようと、各地の橋も事
前に破壊した。だが、その工作は功を
奏さず、むしろ住民の避難を妨げた。
米軍は沖縄本島を分断して南へ、北へ
と進んだ。嘉手納町に、爆破された
栄橋の橋脚の一部が残る。【喜屋武
真之介】
1945/0401は米軍上陸記念日
読谷海岸から大群で押し寄せた
軍兵たちは各豪をしらみつぶしに
おとずれかくれていた住民たちを
捕虜にしていった。ある豪は全員
助かり、ある豪は集団自決に追い
込んだ。
火炎放射器ですべての豪を
念のために焼き尽くした。
デニーパパも背中に火炎砲
を背負い残虐な仕事に従任
完遂した。17、8のアルメニア
からの移民には過酷なノルマが
負わされた。米国籍をとるため
仕事のない彼らに軍兵になるしか
道はなかった。その後も軍属となり
朝鮮戦争に従軍、沖縄の伊江島に
基地をつくる仕事にも加わった。
彼らにとって沖縄は戦闘のない
平和そのもので毎日が退屈の日々。
狼が赤ずきんちゃんを狙わないなんて
ありえない。当時、米兵犯罪は
すべて無罪泣き寝入り。村長はじめ
住民たちはあきらめるしかなかった。
洗えばなおる、命(ぬち)どぅ宝とか
言ってなぐさめることしかできな
かった。ソ連兵も同様で終戦まぎわ
に野獣のごとく相当ひどいことをした。
だから戦争は勝たねばならぬ!
「ピクニック」は結局、
戦闘期間3ヶ月に死者1万2000、
負傷者6万という、当時の米軍
からすれば驚天動地の大出血
に終わる。
アーニーパイルご自身は
伊江島の戦闘取材中に
敵弾にやられて落命、後に
那覇にできた劇場の命名権
をあたえられた。那覇と銀座に
はアーニーパイル劇場があった。
もとの東京帝国劇場が米軍に
摂取された
名前を変えたといわれている。
口は災いの元、ピクニック
なんていわなければよかった。
迎え撃つ9師団を
台湾防衛に引き抜かれて
迎え撃つ戦力が無くなり
内陸での防戦に
切り替えましたからね
作戦ミスで台湾に戦力を
奪ったのに大本営は
水際で無抵抗に文句をつけて
責任ある司令官が居るのに
作戦指導をしだすやら
逃げ出した泉知事の無策で
島民避難も出来てない
牛島司令官は
踏んだり蹴ったりで
相当、苦労したようです
参謀長が交戦派の長氏とか
沖縄県民斯く闘えり
米紙の沖縄取材で明らかに
「米軍に守ってほしい若者
と撤退を叫ぶ高齢者」
3/31(月) クーリエ・ジャポン

Photo: Chang W. Lee/The
New York Times
戦争の傷跡がいまなお残る
沖縄では、米軍基地の負担
軽減に向けて長年取り組み
続けている。戦争を経験し
た世代は断固として米軍の
撤退を求めているが、その
一方で若年層は中国に対する
脅威や経済的な事情から、米
軍を「守ってくれる存在」と
みなしているようだ。分断す
る沖縄の現状を米「ニューヨ
ーク・タイムズ」紙が報じた。
【画像】米軍に反対する
高齢者世代と「安全を与え
てくれる存在」だという
若者世代

糸数慶子(77)は1965年、
米軍のパラシュートが開か
なかったあの日のことをい
まも忘れない。パラシュー
トは、沖縄の糸数家の近く
で降下訓練中の落下傘部隊
とともに輸送機から落とさ
れた、ジープトレーラーに
取り付けられていた。糸数
本人は、落下するトレーラ
ーの直撃を免れたものの、
近所に住む当時小学5年の
女子児童が犠牲になった。
事故当時、高校生だった糸数
はこの事故が起きるまで、自
分の住む亜熱帯の島に駐留す
る米軍がいかに巨大な存在な
のかを意識していなかった。
米国が第二次世界大戦終結後
に日本から沖縄を奪取すると、
それ以降、米国の施政下に置
かれた。糸数はそれまでずっ
と、そうした米国人を見て過
ごしてきた。

だが糸数は、空から降ってき
たトレーラーの犠牲になった
少女を知っていた。それ以降、
沖縄の米軍基地反対を一貫し
て叫び続けてきた。米軍基地
は1972年、沖縄の日本復帰が
実現したあともなお残ってい
る。彼女はつい最近も、沖縄
本島北東岸に面した辺野古の
海兵隊基地ゲート前で、同基
地に隣接する海岸で建設が進
む新飛行場に抗議する活動に
加わった。
米軍は「安全を提供してくれ
る存在」
沖縄の人々は長年、米国と
日本のあいだに捕らわれてい
ると感じてきた。日本は1870
年代、軍隊を派遣して沖縄諸
島の領有権を主張した。それ
以前の沖縄は琉球王国として
知られ、清朝(現・中国)と、
中世日本の大名の支配機構の
ひとつ薩摩藩の双方に貢物
(こうもつ)を納める独立し
た国だった。
沖縄島民は、日本領となって
からずっと二級市民扱いだと
こぼす。先の大戦のときも、
日本は米軍の本土上陸を阻止
するため、沖縄を決戦場とし
て利用した。
だが近年、沖縄と日本本土と
の関係は変化しつつある。
一因として、沖縄の今後を左
右しかねない第三の勢力が再
び台頭してきたことが挙げら
れる。中国だ。沖縄の若い世
代も、本土側の若い世代と同
じSNSのニュースを見ている。
そこでは、ますます強硬な姿勢
を見せる中国政府を批判する見
方が広がっている。
『米国を受け入れるか、中国の
脅威に晒されるか「沖縄は戦後、
日本を守るための捨て石にされ
た」』へ続く。

真の平和と安定を築くためには、
日本の自衛隊が地域を守る
責任を果たし、住民の安全と
尊厳を守る体制を確立する
必要がある。
平和を維持ためには
抑止力となる兵力強化
はぜったいに必要である。
6月23日に組織的な沖縄戦
は終了し、その1ヶ月半後に
広島、更に長崎と原爆が
投下され、それが決定打と
なって降伏に至った。
もし原爆が開発されて
いなければ、沖縄に上陸した
連合軍は南西諸島を北上して
鹿児島に上陸し、そこが
次の戦場になった
可能性もある。
沖縄県民です。
年配の方々は、
米軍基地の負担と言うが
具体的になにを指すのか
若者に教えて欲しい。
生まれた時から、基地が
当たり前のようにあり、
基地で働く友達の親がいたり、
軍用地の収入で大学まで出た
仲間がいたり、今では軍関係
でビジネスして生計立てる
仲間もいる。
何が負担なのか?
教えて欲しい。
左翼がよく使う
すて石とは
あとからつけた
プロパガンダですよ
銃剣とブルドーザー
によって土地が接収された
とかどれも共産党
のあとだし強弁
基地や飛行場はもともと
あったし、そこを補修して
使っているだけ
その周辺に移住して
できたのが普天間だったり
嘉手納、読谷だったりする
地政学的に沖縄が重要
なのはわかりきっている。
周りに家が無い辺野古の
海上に移転すれば
リスクは減る訳で。
なんで反対するか
理解できません
しかしながら、好むと
好まざるとに関わらず、
地政学的に沖縄は
要石のポジションにあり、
これからも沖縄に
軍事基地は存在し
続けると思う
米軍兵士の犯罪等に
ついての地位協定は
改正するべきだとは思う。
沖縄を見て思うが、
最近は反基地派の候補が
軒並み負けたりしてるので、
若い世代じゃ無くても
反基地派の勢力には
うんざりしてる人が
多いと感じます。
平和を保持するにも
それなりの思想や根性と
金がかかる
内戦してる場合ではない

Posted by びーがたらよーん at 05:55│Comments(0)